‘カンズルコト’ カテゴリーのアーカイブ

最期に教わった事

2005 年 5 月 16 日 月曜日

怖かった。
今、この瞬間が「来るべきとき」なのかと認めるのが怖かった。

苦しみのピークを越え、静かに息をする”だけ”のその体はまだ温かい。

手を握るが既に反応もない。ただ息をしているだけ、、、

瞼は力なく少しだけ開いている。
すでに眼球の動きは無い。

「耳は最期まで聞こえている」そうだ

ひたすら謝り、ひたすら感謝の言葉をかけ続けた。
その声をかけ続けることで「延命」できると信じて、、、

しかしその呼吸は次第に弱くなる、、、

弱くなる、、、

心拍数の変化の波が次第に0の方へ近づいていく。
0になった後また少しだけ回復するが徐々に弱く、弱くなる、、、

目を背けてはいけない。
いろんな事を教えてくれた親父が最期に

「死」とはこういうものだ

ということを目の前で見せてくれたのだから。

病室には0を示す心電図の音が響いていた、、、

血抜き

2004 年 7 月 19 日 月曜日

(政治にかなり疎いワシが恐縮しつつ、、、)

最近、管さんが頭を丸めて四国のお遍路さんの旅にでた。そもともお遍路になるきっかけになったのは年金未納問題だが、その頃の政治家達のやりとりは”足の引っ張り合い”に見えて疲れてしまった。

しかし、

ヤミ金等を手に裏でニヤけている奴らのような”悪い血”を政界から全て抜いてしまうことができればと思うこともある。

一度、ミスをしてしまいお遍路さんにまでなった管さんは少なくともこういう事はないだろうし、現在、叩かれている小泉総理についても(甘いかも知れないが)ワシの目には”白”に見える。

各政党の掲げるマニフェストをイマイチ身近に感じれないものもあるが、どちらも”日本を良くしたい!”という目的は一緒なのだから、”けなしあい”ではなく、是非とも建設的な方向で戦って欲しい。

「日本を今一度せんたくいたし申候」

この国をキレイにしたいと言った坂本龍馬の活躍で江戸が明治へ激動した。この時代に皆を奮い立たせる事のできる”革命児”は現れるのか??

夢を見た

2004 年 1 月 14 日 水曜日

夢を見た
久しぶりに夢を見た

夢の途中、
”夢を見ている自分”に気付いていたが
そのまま夢を見つづけた。

消して見ることのできない
自分が愛する皆と死別する瞬間

泣きたいときもある、、、

存在

2003 年 8 月 20 日 水曜日

「人はその存在を認められたときに幸せを感じる」
ある方がこう言っていた。

たしかにそう思う。

頼りにされる
愛される
思い出される

すべてその人の「存在」が無ければありえないことだ。愛する人と結婚するということもお互いの存在あってこそ成り立つものであり、幸せの一つの形だと思う。

私以外の視点から私のことを評価、紹介してくれている文と触れる機会が多くなってきた。そこには自分が努めている以上に客観的に私を描写している。それは別の視点で私を知ることができ、同時に、深く私の「存在」を感じることができる。

私の知らない時に
私の知らない場所で
私の知らない人が
私の知らない私を探してくれる

幸せなことである。
幸せなことである。。

まずは、、、

2003 年 8 月 8 日 金曜日

寂しくても、
苦しくても、
逃げ出したくても、
憂鬱でも、
泣き出したくても、
先を見失ったとしても、
不安でも、
疲れても、
孤独でも、

「ほほえみ」を。
まずはそこから始めてみよう。

憂い

2003 年 7 月 9 日 水曜日

今、その旅に一つの区切りを迎えようとしている。
その時が近付くにつれ、拭いきれない違和感が襲う。

何か違う。

考えても考えてもその違和感が一体何なのか分からない。

もしかするとそれは無意味な不安なのかもしれない。

もしかするとそれは成長の瞬間なのかもしれない。

頭を離れない。

君らいいっ!

2003 年 6 月 28 日 土曜日

最近、私より10も違う子達と接する機会が多い。
私にとって些細な事でも彼らは真剣に悩み、涙する。
微笑ましくもあり、うらやましくもある。
それだけで最高に素晴らしい。

ベクトル

2003 年 6 月 1 日 日曜日

努めて多くの人と会うようにしている。
努めて多くの物を見る(聞く)ようにしている。

ナゼか。

沢山の人と会話をすることで
多くのものを見て聞くことで
いろんな意味での分布を知る事ができるから。

ナゼそれを知る必要があるのか。

その中における自分の”現在位置”を
知ることができるから。

ナゼそれを知る必要があるのか。

現在位置から目標点までの
ベクトルを見つけることができるから。

より良く

2003 年 5 月 17 日 土曜日

より良く生きるためには

自分をきちんと”表現”でき、かつ
相手(人に限らず)のことも”理解”する
必要がある。

その”表現”が別に難しい言葉である必要はない。難しい言葉を並べても相手に伝わらなければそれはすでに”表現”ではなく”独り言”だ。幼稚な言葉であってもいい。言葉はあくまでツール。伝えたい相手にきちんと主張できる必要最低限の言葉を知っていればいい。

言葉でなくたってかまわない。
自分にとっての表現が”絵”でも”音”でもいいのだ。表現したいことが伝わればいいのだ。

そして、その表現を理解し、相手の主張を受け止めたとき、初めて相手との基本的なコミュニケーションが成立し、思想を交わすことが出来るようになる。

私的、表現のススメだ。

、、、しかし、そう言いながらこの締め付けの悪い文もなんだかなぁ(苦笑)

100%

2003 年 4 月 25 日 金曜日

「あの人は100%信用できる人だから・・・」
ある人が言った。

私は基本的に”絶対”とか”100%”というような
言葉を好まない。それは”物事に完璧と呼べるものはそうそう無いだろう”という発想からきている。

でも、もしかするとそれは「どこかに逃げ道の隙間を作っておきたい」という弱さの裏返しなのかもしれない。

「100%!!」

実際はそうでなくとも、そう言い切れるくらい人や物事を信じ切ってみたいものだ。