‘名護オジ歴民講座’ カテゴリーのアーカイブ

アイヌと、宮古人以外の琉球人に共通するウイルス

2003 年 9 月 16 日 火曜日

 白血病の原因となるウイルスのことであるから、人の健康という点でいえば、あまり喜ばしい話題とはいえない。
 成人T細胞白血病(ATL)の原因ウイルス(HTLV)は、人類の地球規模での移動を研究する上で注目されていうウイルスである。そのHTLVには、I , II , III 型の3種類があり、そのうち日本列島の人々の体内に存在する型はI 型である。
 そのHTLV-1型ウイルスは、アジアではインド人の一部と日本人にだけにあり、東南アジア、朝鮮・中国などには分布しないらしい。日本列島でも全国的かというとそうではなく、与那国島以北の八重山諸島、沖縄諸島、奄美諸島、薩南諸島、九州では国東半島とその周辺を除く全域に分布し、さらに北上して愛媛県の南(南予;佐田岬、宇和島など)、徳島県の南、和歌山県の海岸沿い、さらに飛んで、東北地方の太平洋岸に一部、およびアイヌ人などに多いという。要するに太平洋の黒潮が流れている海沿いの地域に住む人々の血液中にこのウイルスはいる。国東半島から四国の北部、中国地方、近畿以北の人々の日本人(倭人)体内にはほとんどいない。また、琉球列島のなかでも、宮古島の人々はこのウイルスに感染していないことが報告されていて、極めて興味深い例外である。
 HTLV-1型にも二つの型があり、亜型Aと亜型Bとよばれる。琉球人とアイヌは亜型Aが多く、琉球を除く西南日本は亜型Bが多いという(亜型Bは世界的にも日本にしかないので、亜型Aからの変種かも知れない、というのは専門家でない私の意見だからあてにはならないが・・・)。
 ところで、沖縄、アイヌに関係する亜型Aは、京大ウイルス研究所の三浦智行氏によると、ほとんどの大陸に分布する汎大陸型とされ、その分布を広げた時期は、数千年前の比較的近い時期とのことである(『日本列島の人類学的多様性』勉誠出版2003)。三浦氏は

 「日本における亜型A,Bの存在が示すことは、HTLV-1をもたなかったと考えられる弥生人も含めて、縄文時代以前から、後に日本列島となる地域に、何回かにわたって人々が移り住んできたということである。亜型Aの極東、南米、中東クラスター(群)が示す数千年前の感染の拡がりが、どの様な人類移動によって起こったかは興味深い。そのころは既に各地に人類が住んでいただろうから新参ものが容易に定着出来るとは思えないが、これだけ遠く離れた場所に、ほぼ同時期に感染が広がっているのは不思議である。例えば亜型Aに感染した集団が人類の歴史の中で最初に遠洋航海術を発達させた、当時の最先端の文明を持つ集団であったからという説明はいかがであろうか。」

 と書いている。三浦氏はインド経由の拡散を考えているが、「アイヌのHTLV-1は北方からの伝来で、沖縄のそれは南まわりで人類始原のアフリカから来たのであろう、との説もあって、まだまだ究明が必要のようである。いずれにしても東北アジアでは、日本列島にだけHTLV-1が存在すること、またその中の亜型Aが琉球人とアイヌに特有であることなどから分かることは、琉球とアイヌの近縁性、とアイヌ民族と日本人の近縁性を示唆するものである。
 HTLVに関しての不思議の一つは、宮古島人にはほとんどHTLVキャリヤーがいないということであろう。しかし、私の歴史観から云えばこれは当然のことであり、宮古人の祖先たちは、おそらく4~10世紀のある時期に、畿内などの本州島中心部から政治的理由で南島に逃れてきた人々であるから、と考えている。宮古の倭人(原日本語を話す人々)の歴史は沖縄・奄美に比べると新らしい。しかし、彼らの志操は、原理主義と云っては大げさであろうが、彼らのオモイを守るという意志においては、極めて高い。

 ところで、日本では年間700名程度の発症とのこと。キャリアー(ウイルス感染者)でも白血病を発症する率は極めて低い。また、その感染ルートのほとんどが、母乳感染であることが分かっていて、新生児の母親がウイルス感染者であれば、人工母乳にすれば感染は防ぐことが出来るので、あと数十年で根絶可能とのことである。

 追記:日本海側では、隠岐島が特異的にキャリアの多い土地である。日本で闘牛の盛んな土地といえば、沖縄、徳之島、宇和島、隠岐島などであるが、その全てがHTLVの分布地域である。これは偶然のことかも知れないが・・・

岩手の赤椀・黒椀伝説(歴民講座13)

2003 年 6 月 26 日 木曜日

 『遠野物語』は、岩手県の遠野地方に伝わる説話を聞き集めた柳田の初期の著書として名高い。その中に、正直な人間に豊かさを授ける不思議な器物として「赤椀・黒椀」が語られている。読みやすく書き直して引用する。
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 小国(をぐに)村の三浦某と云う者は村一番の金持である。しかし幾代か前のこと、当時家は貧しく妻は少し大ざっぱで間がぬけていた。この妻がある日家の前を流れる小さな川に沿って蕗(ふき)を探りに入っていったが、よい物が少ないので、次第に谷奥深く登って行った。さて、ふと見ると立派な黒い門の家があった。訝(いぶか)しく思いつつも、門の中に入って見たら、大な庭があって紅白の花が一面に咲き、鶏もたくさん遊んでいた。その庭を裏の方へ廻ってみると、牛小屋があって牛が多くいて、また馬小屋があって馬も多くいたが、一向に人のいる気配がない。
 ついに玄関より上ってみると、その次の間には赤と黒のお椀が多数取出してあった。奥の座敷には火鉢があって鉄瓶(てつびん)の湯のたぎっているのがみえた。けれども全く人影がないので、もしや山男の家では無いかと急に恐ろしくなり、駆け出して家に帰った。
 この事を人に語っても実(まこと)と思う者は無かった。ある日、わが家の川戸(カド:門前を流れる川に水を汲み、物を洗うために家ごとに設けた所)に出て物を洗っていたら、川上より赤いお椀が一つ流れてきた。あまり美しかったので拾い上げたが、これを食器に用いたら汚いと人に叱られるかと思い、ケセネギツ(ケセネは米・ヒエその他の穀物。キツはその穀物を容れる箱)の中に置いてケセネを量る器とした。
 ところが、この器で量り始めてからというもの、いつまで経ってもケセネ(穀物)が尽きなかった。家の者がこれを怪しいと思って女に問いただしたところ、始めて川から拾ひ上げた由を語った。この家はこれより幸運に向い、ついに今の三浦家となった。
 遠野では山中の不思議なる家をマヨヒガと云う。マヨヒガに行き当たった者は、必ずその家の内の什器(じゅうき)、家畜何でも持ち帰ってくるべきものである。その人に授けようとしてこのような家を見せるのであるから。女が無慾で何物をも盗んでこなかったが故に、この赤いお椀が自ら流れて来たのであろうという。
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 北海道を除くほとんど全国において、遠野でいうマヨヒガすなわち「隠れ里(隠された世界)」と人間世界は、お椀(しかも赤く着色されたお椀:赤椀)を通じて絶えず交渉があった。柳田の指摘するように、全国民的伝説に赤椀がついて廻るのは、何を意味するのであろうか。
 人に恵みをもたらすという不思議な赤椀・黒椀が、沖縄の神歌にいう「ヤマトから下った世直しの赤椀・黒椀」であったとすれば、この話は、奄美大島の世直しのお椀と同様、日常生活から発生するような単純な昔話ではないのである。
 「隠れ里」から赤い椀が流れ着くとか、椀を貸してくれるなどという伝説は、奄美以南の琉球圏には存在しない。しかし、日本本土の伝説にいう「朱の椀」と、沖縄・奄美の神歌にいう「世直しの赤椀」に何らかの共通性のあるらしいこと、さらに言えば、その両者は元々同じものであったと仮定することができる。そう仮定すると、九州以北の伝説にいう「隠れ里(仙郷)」とは、奄美・沖縄のことらしいとの推測が成り立つ。そうであれば、これらの伝説は、倭国、あるいは原初ヤマト国家の成立と崩壊の過程から派生した伝説・説話である、との推測が出来るであろう。

 沖縄の神歌にあるように、「世直しの赤椀」の起源地は沖縄ではなくヤマト(北部九州)であった。しかし九州を起源とする世直しの運動は、沖縄を一種の「理想郷」と想定したらしいことは、沖縄の神歌から推測できることであった。また何よりも、北部九州を中心に分布する沖縄産巻き貝の腕輪、さらにそれを真似て作られた鍬形石などの沖縄形副葬品が奈良を中心に全国的に分布する事実は、弥生時代から古墳時代の初めにかけての日本本土の人々が、それらのいわば沖縄を記念するものを最も重視したことを示している。従って、弥生中期から古墳時代前期の日本本土の人々が、沖縄を一種の「理想郷(仙郷)」と見なしたらしいと推測することに無理はない。「椀貸し伝説」の分布と沖縄形副葬品の分布、および前方後円墳の分布域はほぼ一致する点にも注意したい。世直しは赤椀をシンボルとし、それはまた理想郷(仙郷)を目指す一種のユートピア運動であった(と仮定した)から、その「仙郷」から赤いお椀が流れてくるという想定は「世直し」の波及を意味している。赤い椀が人に幸をもたらすとの言い伝えは、「世直し」が人々に幸運を約束するものであったことの象徴にほかならない。

沖縄に来た古代新潟のヒスイ(名護オジの歴民講座12)

2003 年 6 月 12 日 木曜日

 日本本土の古代遺跡から、ヒスイ製の勾玉(曲玉:まがたま)が多数出土している。その原石のヒスイは新潟県、姫川支流の小滝川, 青海川が産地である。ヒスイは新潟県の他にも長崎などでも採れるが、古代の曲玉は何故か新潟産だけが利用されたらしい。
 ところで、曲玉を多量にしかも長期に渡って実際に神祭りに使用してきた地域は琉球・沖縄であった。私の生まれた村では、女性神役のノロが今でも5月ウマチー(祭り)に使っている。普段の日には村に有力にさえ公開しない。日本本土では、古墳時代にその伝統が途絶えているのに比べると驚嘆すべきことである。沖縄のノロの曲玉は、その材質が滑石のものが多いがヒスイ製もある。曲玉は日本で造られたものであるから、沖縄の曲玉も日本本土製であることは明らかである。弥生時代の典型的な曲玉は、その形が北部九州で完成したものとされている。
 それが何時の時代に沖縄に伝えられたかは、確かな証拠を上げるのは難しい。しかし、その北部九州で曲玉が盛んに使われた時代に、沖縄から盛んに運ばれたものは、例のゴホウラ貝である。そのことから判断すると、貝を採りにきた人たちがその代価として沖縄に持ち込んだ主なものが曲玉であったと考えられる。曲玉と共に九州からもたらされてものは、それだけではなかった。
 北部九州の弥生時代中期と言えば、有名な吉野ヶ里遺跡の時代である。須玖式土器と呼ばれる赤い土器が作られ、お墓に納められている。この赤い土器が曲玉と共に沖縄にも伝えられた。沖縄の神歌に言う「ヤマトから下った赤椀の世直し」とはこの土器のことであろう。ヤマトから来た赤い器物とは、この須玖系土器以外には考えられないからである。
 この系統の土器が知念村の斎場御嶽から出ている。地層は異なるが、ほとんど同じ場所からヒスイの曲玉で出た。このヒスイは新潟産であることは、間違いないと思われる。
 多くの人は、沖縄が初めて日本の一部になったのは1609年の薩摩進入以後のことと信じている。琉球を主な研究対象とする歴史学者でさえそう思っているのであるから、やむを得ないこととは思う。しかしその常識は誤っている。紀元前100~200年頃から紀元後350年頃までの沖縄は、倭国の重要な一部であった。日本本土を慕う沖縄のノロの神歌、曲玉などはそれを証拠立てるものである。

関東学・東北学 & 沖縄学(名護オジの歴民講座11)

2003 年 6 月 5 日 木曜日

対立する二つの日本史観(一つの日本か、多様な日本か)

 日本国籍を持ってこの国に暮らす私たちにとって、好むと好まざるとに関わらず、クニ(日本)とは何なのか、あらためて問われている時代である。この問いは、この日本列島に存立してきた政権の興亡を問いそれをどう観るか、すなわち歴史観の問題に深く関連している。
 ところで近年、その対立が精鋭になってきた二つの歴史観がある。「新しい歴史教科書をつくる会」の会長、西尾幹二氏による『国民の歴史』に示された国家中心史観がその一方であり、それに対立するものとしては、中世史家の網野善彦氏による『「日本」とは何か』で述べられる史観をその代表に挙げるのが適当であろう。ここでは前者を西尾史観、後者を網野史観としておきたい。
 クニに関わる諸問題の代表的な項目として、靖国問題、国歌・国旗の問題、建国記念の日、改憲問題、愛国心教育の問題などを挙げることができる。ごく大雑把に分類すると、西尾史観に立つ人々は、クニは一つという心情から、これらのクニに関わる諸問題を肯定し、推進する側にある。網野史観に立つ者は、これに反対するという明確な対立構造を示しているといってもよい。
 網野氏の『日本とは何か』において主張されている立場は、要するにこの日本列島には、歴史的に一つの日本などなかった、とするものである。一方の『国民の歴史』に代表される「新しい歴史教科書」問題は、中国、韓国との外交問題にまでなって騒がれた。しかし、世に知られた割には、『国民の歴史』をまともに読了した読者は少ないのではないか。私は遅まきながら最近、『日本とは何か』と対比しつつこの書を隅々まで向き合って読んでみた。
 予想以上の内容があったとまず述べておきたい。西尾史観に賛同するという意味においてではなく、氏のすさまじいといって過言でないその執念の国家観に対して、ある種の感銘を禁じえなかったのである。西尾氏個人の心と魂は、どうやら日本という国家と分かちがたく結合しているらしい。
 反対に、『「日本」とは何か』の立場は、歴史的な「一つの日本」を想定することを幻想として退ける。この列島に暮らしてきた人々の文化や心情を、はじめから多様なものであったと理解する。その最も端的な拠り所として、沖縄の独立性が強調されている。沖縄は江戸時代以前、日本本土の側からみると異境・異域であったのであり、強引に併合された後も、文化や人々の心情の上では、異域であり続けた。かつて存在した「琉球王国」は、今なお地域の人々の誇りであり続けており、もしも経済や安全保障その他、もろもろの条件が許せば、沖縄の人々の多数は日本からの分離・独立を選択するのではないか。網野史観に相対する西尾史観においては、予想されるように沖縄やアイヌ問題は全く扱われることがない。この二つの史観のどちらに与するか、二者択一が迫られているようにみえる。

 歴史を専門とする学者諸氏の多くは、「多様な日本」をという網野史観に立っているらしい。その立場から、関東学、東北学など地域に立った学問を確立しようと努力もなされている。地域学の中でも際立っているのが伊波普猷を祖とし、外間守善氏に受け継がれている「沖縄学」であろう。
 さて、この旅も関東に入り、次は東北であろう。地域をまわって見るなかで、どの歴史観が正しいか、次第に分かってくると考えている。
 結論を先にいうと、網野史観、西尾史観の両者ともに大きな欠陥を抱えている。それは、日本という一つの国家の起源に、「沖縄が極めて重要な意味をもった」という事実認識の欠落である。
 この解明なくして、関東学、東北学はもちろん、沖縄学さえ存立しえない。伊波普猷や柳田国男の目指したものは、ご本人たちが自覚したかどうかは別として、結果的には、このことの解明であった、と理解しなければならない。その場合の「一つの日本」は、西尾史観でいう日本とは異なる「失われたもう一つの日本」にほかならない。
 沖縄、東北 関東など、奈良・京都から遠く離れた土地の中にだけ残っている、失われたもう一つの日本を発見し、その完全な再現を目指すことが大事である。その失われた日本こそが、実はかつての日本列島の人々が希求した「ほんとうの日本」らしいからである。地域学のほんとうの意義はこの点にあると私は思う。

 「失われた」とはいえ、奈良、京都を中心とするヤマトでは、歴史は実は神話の形になって残っている、という点に注意しないわけにはいかない。西尾史観においては、その神話を神話のままに信じ、尊重するよう主張する。しかしその立場は極めて危ないものである。太平洋戦争の前、そのような教育の結果、国は滅びた。
 神話を無視する網野史観の立場も誤りを含んでいる。神話は科学の力を借りて、歴史として復活させなくてはならない。

神奈川県の浦島伝説・名護オジの歴民講座10

2003 年 4 月 25 日 金曜日

浦島太郎の話は、『日本書紀』の他にも多くの文献にみられ、その伝説も全国に分布し、なかでも丹後半島の京都府伊根町、香川県詫間町などが有名である。
 この浦島伝説は、実は2000年前の沖縄と日本本土との政治的事件を反映したものであることはほとんど知られていない。(というより、私の邪馬台国「赤椀の世直し」説でもって初めて解明できるものと思っている)。ここでは神奈川県の伝説を主体に述べよう。
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~yu-walk/minwa-12.htm
に載っている伝説をまずそのまま紹介する。

  遠い、むかし。
三浦の里に、水江浦島太夫(みずのえのうらしまだゆう)という人がいた。 あるとき、太夫は、太裡(たいり)という仕事につくため、 妻と太郎という子をつれて、丹後の国へと旅立った。 何年かたち、太郎がすっかり若者らしくなったある日、小舟で海へ出て、 釣りをしていると、亀がかかってきた。それは、五色にかがやく珍しい亀だった。 だが、太郎は、そのふしぎな亀が、 かわいそうになって、そっと海へもどしてやった。しばらくして、太郎がふと気づくと、舟の中には美しい女の人が立っていた。 その人は、
「わたくしは、先ほど助けていただいた亀です。 あなたのやさしい心に、 お礼をさしあげましょう」
といって、太郎の手をとり、蓬莱山海若神都(とこよのくにわだつみのみやこ) というところにある、美しい宮殿につれていった。 その宮殿は、竜宮(りゅうぐう)とよばれていた。
花が咲きみだれ、音楽がひびいている竜宮で、太郎は楽しい日をすごした。 あっという間に三年の月日が流れ、父母が恋しくなった太郎は、ある日、 竜宮に別れを告げて家に帰る、といった。
美しい人は、悲しそうに別れをおしみ、一つの箱をわたすと、
「また、この国に来たいと思うならば、決してこの玉手箱を開いてはなりません」
といった。
太郎は、かたく約束をして竜宮をあとにした。 蓬莱山海若神都(とこよのくにわだつみのみやこ)を出ると、いつの間にか、 太郎は丹後の国に帰っていた。
だが、家のあったところは川原になり、山は海になり、何もかも荒れはて、 村はすっかり変わっていた。 その上、知っている人がだれもいなかった。 太郎が一人の老人のところへ行って、両親や家のことをたずねると、 老人は、太郎のいうことがよく分からないらしく、しばらく考えていたが、 やがて、
「何百年もむかしの話だということで、はっきりしないが、 浦島太郎とかいう釣りの好きな男が、舟で海に出たまま帰ってこなかったという。 お前さんの話は、そのころのことらしい」
というのだった。

 この話において、神奈川県のことが丹後の国と関係付けられて語られている理由は、幾つか考えられる。一つには、権威ある文献で浦島伝説が丹後国のこととして書かれているためであろう。この中に「蓬莱山海若神都(とこよのくにわだつみのみやこ)」とある。これによっても、以前に書いた海幸・山幸の話(名護オジの歴民講座5)とほとんど同じモチーフであることが分かる。神武天皇の祖父にあたる山幸彦が行く先は、薩摩半島から一日かかる海の国であり、それは奄美・沖縄にほかならなかった。
 紀元0年頃から350年頃までの間、沖縄と日本本土は親密な関係にあった。日本国家がいかにして誕生し、そしてその国家の基礎ともなった常世国、沖縄との関係が切れたということが伝説の形で残っているのである。伝説には、その関係の途切れた理由は述べていない。沖縄の神歌から推察すると、それは、原初ヤマトが「世直し」、すなわち革命を容認し、しかも女性の宗教的権威を尊重する政権であったからであろう。上のHP には「竜宮にいたのは三年のはずだったが、丹後の国では三百四十七年もたっていた」と述べられている。
「三百四十七年」には偶然とは思えない正確さがある。日本本土の中心部で出土する沖縄由来の遺物の年限は、およそ350年、九州では600年くらいである。古代のある時期、沖縄と日本本土とはかくも長く、親密であった。

名護オジの歴民講座(9)富士の女神:コノハナサクヤ姫

2003 年 3 月 20 日 木曜日

 『古事記』・『日本書紀』に、コノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売)が出てくるが、この神は実は富士山に関係する祭神として有名である。浅間(せんげん)神社という神社が、静岡県側と山梨県側にたくさんある。全国で二千以上と云われるが、富士山周辺に密度高く分布する。その浅間神社の祭神が「コノハナサクヤヒメ」であり、富士山の神と云って差し支えないであろう。この神は単に富士山の神であるばかりでなく、ヤマト国家の成立にとって極めて重要な意味を持つ。
 『古事記』ではまたの名として神阿多都比売(カムアタツヒメ)。『日本書紀』では神吾田鹿葦津姫、またの名は木花開耶姫という形で書いてある。大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘で、神武天皇の祖母の母、すなわち曽祖母にあたる。神武の曽祖父 ニニギノミコトが筑紫の日向の高千穂のクシフル嶽にやって来て、海岸を歩いていたら、美しい乙女が従者を連れてやって来た。それがキラキラしく美人のコノハナサクヤヒメ。すぐにプロポーズした。この話は名前の「吾田」からも分かるように、薩摩半島で起きた物語となっている。
 プロポーズされた彼女は、父親(大山祇神:伊予一宮の祭神)と相談する。大山祇神は云う。「私には二人の娘がいる。姉は岩長姫といい、名のようにゴツゴツした醜い顔の女である。妹の木花之佐久夜毘売はこの通り、キラキラしく美しい。貴女が二人を共に妻とするならば、きっと栄えますでしょう」。ニニギノミコトは、岩長姫を断り、妹だけを妻とする。
 実はこの話には、ヤマト国家形成にいたる深い秘密が隠されている。大山祇神は金属鉱山の神であり、その子である岩長姫は、鉱石の神、次に生まれたその妹のコノハナサクヤ姫は、岩石を処理した次の工程で出来るキラキラしい金属の精にほかならない。大山祇神に象徴される瀬戸内の海人たちは、出雲と連合し、その金属精錬技術を薩摩に売り込み、もって大連合を形成しようとした歴史が神話となったものと解釈すべきである。事実、この話の前段はいわゆる「出雲の国譲り」であった。北部九州、瀬戸内勢力、出雲などの中国地方の勢力は、その連合を拡大し、いわゆる邪馬台国連合を形成していた。
 薩摩半島には砂鉄が採れた。それを使って鉄を国内生産しようとの、邪馬台国側の提案を薩摩側が断わったことが、岩長姫拒絶になっているのであろう。おそらく当時、薩摩の海民たちは、大陸の金属製品を輸入することにのみ関心があり、岩石(岩長姫)でもって金属(コノハナサクヤ姫)を得ることを不必要と考えた。
 静岡にも大山祇神を祀る神社がある。三島市の三嶋大社である。祭神は、大山祇神と事代主神(出雲の神)で、この御二柱を三嶋大明神と総称する。伊豆の島々の噴火・造島活動、富士山の度重なる噴火との関わりもあると思われるが、それ以上にこの地方の国家創建の頃の金属精錬と関わりが深いことを意味するものと考えるべきである。
 さて、話を戻して、コノハナサクヤ姫の生んだ子の一人(山幸彦)が、薩摩半島から特殊な舟にのって一晩かかる海神の宮に行き、神武天皇の父親であるウガヤフキアエズを生むこと、また海神宮が奄美・沖縄のことにほかならないことは既に歴民講座(5)で述べた。

名護オジの歴民講座(8): 尾張・美濃・三河と沖縄

2003 年 3 月 5 日 水曜日

 歴民講座(7)において、鍬形石のことをとりあげた。原初のヤマト国家成立の頃には、沖縄と近畿とは政治的にも深い関係にあったことを述べたのであるが、それは尾張・美濃・三河などの中部地区と沖縄との関係についてもあてはまる。下記ページ参照http://www.setouchi.ac.jp/~dnagoh/kantouzusetu/top.zusetu%20.html

 ところで、沖縄と尾張・三河との関係については、弥生時代より前の縄文時代にさかのぼるというから驚きである。豊橋市にある縄文時代晩期(約2500年前)の水神貝塚から、沖縄産の巻き貝の腕輪が出ているというのである。http://www.toyohaku.gr.jp/bihaku/kaiwa.htmには、その南海産腕輪の写真付きで次のように記述されている。

 豊橋市牟呂(むろ)水神町に所在する水神貝塚(第2貝塚)からは、奄美大島より南でしか採れないイモガイで作られた珍しい貝輪が出土しています。
 水神貝塚(第2貝塚)の発掘調査は、平成4~5年にかけて行われ、貝塚全体が調査されています。
 南海産貝輪は、貝塚南部の上層である31層(縄文時代最終末樫王式期)の貝層中に径1メートルほどの範囲で散在して出土しています。全部で5個体が出ており、南海産のイモガイを縦に裁断して研磨して作られ、大きさは長さ約10センチメートル、幅約7センチメートルのものです。
 南海産貝輪は、弥生時代の巫女などの特権階級が好んで装着していたと言われ、北部九州を中心に分布しています。当館(豊橋市美術館)の所蔵しているものは、縦型のタイプでは分布の東端になります。

 貝塚の所在地である牟呂(むろ)や水神という地名も気になるが、「尾張地方から縄文時代に沖縄産のイモガイ」とは信じがたいと云わなければならない。というのは九州においてさえ、縄文時代の南海産巻き貝というのは報告がなく、南海産腕輪の出る時代は弥生時代というのが今までの常識である。それが何故、いきなり尾張で、しかも縄文時代であろうか。大きな謎である。私は縄文晩期という時代認定に問題がないかどうか、疑っている。しかし仮に弥生時代前期の誤りであっても、なお大きな驚きをもって見るべき「考古学的事実」なのである。

名護オジの歴民講座(7) 沖縄と伊勢

2003 年 2 月 26 日 水曜日

 伊勢神宮が成立した11代垂仁天皇の頃、すなわち4世紀後半に、それまでは非常に親密であったヤマト(日本本土)と沖縄の関係が断絶した。その証拠が奈良、伊勢、尾張を中心に存在する。
 奈良と伊勢を結ぶ街道沿いに、幾つか著名な前期古墳がある。それらの古墳に特徴的な物は、実に沖縄を象徴する物品なのである。
 前期古墳とは、古墳時代の前期に作られた古墳であるが、その判定基準は、古墳に供えられた物の種類にある。
 たとえば有名な三角縁神獣鏡。女王国の卑弥呼が中国の魏(ぎ)の国からもらったとも云われるカガミである。カガミと共に、というより、カガミ以上に古墳時代前期に重要視されたらしいのが腕飾(わんしょく)類と云われる物。すなわち腕輪の形をした石製品である。幾つかの種類があるが、代表的なものが、鍬形石(くわがたいし)と石釧(いしくしろ)。
 これらは日本では唯一、沖縄の海底から採れるゴホウラとイモガイいう巻き貝がその起源である。このことは考古学的に完全に証明されている。大型のこれらの巻貝は、およそBC100年からAD350年頃までの間、約450年にわたって、九州から東北地方の南部にまで時間を追って次第に普及し、カガミ以上に重要な物と考えられた。
 しかし、それらの鍬形石は、伊勢神宮の成立した頃、すなわち4世紀後半に、捨てられるようにして墓に埋められるのである。それ以降は、奈良を中心とする畿内からは出てこない。親密であった沖縄との関係が途切れて、敵対関係になった証拠と私はみている。
 沖縄の貝の形が捨てられるように埋められた古墳が三重県嬉野町にある向山古墳や筒野一号墳。大正年間に車輪石や石釧が出土している。また三重県上野市の石山古墳の粘土槨内からは、大量の石製腕飾類(鍬形石、石釧など)が出た。これらの古墳はいずれも奈良と伊勢とを結ぶほぼ直線の上にあり、しかも築造年代も垂仁の時代、すなわち記紀にあるアマテラスの伊勢鎮座の頃(古墳時代前期末)であると推定される。
 「伊勢は常世の国の波は幾重にも押し寄せるところだから、私はそこに居りたい」とアマテラスは云われた。太平洋の黒潮にのって、沖縄からの波が寄せるところが伊勢だ、と解釈すれが、上の考古学的常識に合致する。伊勢と沖縄、また天皇家と沖縄との縁は意外に深いのである。真の歴史が失われて年久しい。

名護オジの歴民講座(6): 奈良と沖縄–その2

2003 年 2 月 18 日 火曜日

 蝶々(チョウチョウ)の本当の和語(本来の日本語)をご存知であろうか。「蝶々はチョウ、あるいは古い言葉で云えばテフテフであって、それ以外の日本語があるか」、と大部分のひとは疑うであろう。しかし、チョウは、「てふてふ」も含めて中国語、あるいは朝鮮語由来の外来語なのである。
 私の子供のころ(沖縄では)、チョウは「ハベル」あるいは「ハーベールー」と云っていた。実はこれが古来の標準日本語でチョウを意味する言葉であった。この言葉は、沖縄と九州の一部、および長野県以北、東北地方などにしか残っていない。奈良を中心とする列島の中央部では滅びた言葉である。何故、奈良では滅びたであろうか。以下は私の説。
 沖縄ではハベルは、高級神女(ノロ)の象徴であったことは、沖縄の神歌から明らかである。おそらく女性たちが宗教権をもっていた時代のヤマトでもハベルは、卑弥呼やその後継者の女性司祭者の象徴であったことが想定される。しかし、彼女達は、4~5世紀頃に男性的、軍事的権力者たちによって、さらに奈良時代以降は仏教者たちによって滅ぼされ、すみに追いやられ、零落した。彼女たちの象徴である「ハベル」も禁句となったであろう。万葉集にはテフテフを含めても、蝶を謡った歌は皆無である。沖縄の神歌、オモロと対称をなす。
 この例のように、古い日本の言葉や文化が奈良・京都を中心とするヤマト中央部では滅び、反対に沖縄や東北地方などの辺境に残っている現象を「文化周圏論」とも云う。
 これに類する言葉が、神拝みの真っ先に唱えられる「ウー、トートー」である。柳田国男によれば、

 村の人々が社頭にぬかづく際、最初に自然に口から出る一言葉は、実に今日でもまだ次の通りである。
  アアトウト、           壹岐島       (長崎県)
  アアトウトマウシアゲマスル    同上        (長崎県)
  アアトウトウサマ         肥前北松浦郡大島  (佐賀県)
  アットウダイ           陸前氣仙郡     (宮城県)
  アットダイ            陸中釜石      (岩手県)
  アトダイ             陸中遠野郷     (岩手県)
  アットデア            盛岡市       (岩手県)
  アットダイ

名護オジの歴民講座(5):奈良と沖縄・・「建国記念の日」に寄せて

2003 年 2 月 11 日 火曜日

 今日2月11日は「建国記念の日」ということで休日。この旗日は、戦前にあった紀元節を実質的に復活させたものである。ではその「紀元節」。小学館の大百科辞典によると、

 「明治政府によって定められた神武(じんむ)天皇即位日の祝日。・・・歴史的根拠があいまいな祝日を制定した意図は、天皇を中心とした国家支配の正当性を内外に誇示することにあり、・・・この日は国家主義や軍国主義の宣伝に大きな役割を果たした」。

 ところで、古事記・日本書紀(両書を合わせて「記紀」という)に述べられる神話的な初代天皇「神武」は、ほとんど沖縄出身と云ってもよい存在であることは意外に知られていない。
 記紀の記述によれば神武の母親の祖母(曽祖母)は、鹿児島の人である。祖父にあたる山幸彦(やまさちひこ)が、薩摩半島から特殊な船で1日かかる南の海底の国(海神宮)に行って、海神の娘豊玉姫を孕ませる。出来た男児がウガヤフキアエズで、神武の父。その父は豊玉姫の妹(すなわちオバ)と結婚し4男児を生む。末っ子がイワレヒコで後の神武天皇。
 神武の祖母と母の国、薩摩半島の沖にある海神宮(龍宮)とはどこか。私のサイトである程度は述べてあるが、それは今日の考古学から云って沖縄(琉球)の他にあり得ない。すでに江戸時代の実証学者(藤井貞幹)はそのことを主張したが、当時はその証拠が明確でなかったために新井白石によって退けられた。
 今日、奈良に初めての統一国家が成立した西暦250年前後(0~350年頃まで)の政権のシンボルは、青銅のカガミと共に沖縄を象徴するゴホウラと呼ばれる巻き貝の形であったことは、考古学の常識となりつつある。
 神話がそのまま史実というわけではない。しかし、竜神であり、また海を支配するワニ(サメ)でもある豊玉姫姉妹が、沖縄ゆかりの存在であることは、学問的に完全に立証される時代になったことは間違いない。このことが一般に認められ日は遠くないであろう。
 神武の母と祖母が神話的にはではあるが沖縄の海の女神であったという記紀の記述からすると、のちの日本という国の初代天皇のDNAの4分の3はウチナーンチュなのである。また残り4分の1の半分は鹿児島人であった。
 しかしそのことは、奈良の政変によって覆い隠されて不明となったのであった。 2月11日は、このことを明らかにしていく日としな