2003年06月05日最終位置

2003年06月05日の旅日記

「関東学・東北学 & 沖縄学(名護オジの歴民講座11)」

対立する二つの日本史観(一つの日本か、多様な日本か)

 日本国籍を持ってこの国に暮らす私たちにとって、好むと好まざるとに関わらず、クニ(日本)とは何なのか、あらためて問われている時代である。この問いは、この日本列島に存立してきた政権の興亡を問いそれをどう観るか、すなわち歴史観の問題に深く関連している。
 ところで近年、その対立が精鋭になってきた二つの歴史観がある。「新しい歴史教科書をつくる会」の会長、西尾幹二氏による『国民の歴史』に示された国家中心史観がその一方であり、それに対立するものとしては、中世史家の網野善彦氏による『「日本」とは何か』で述べられる史観をその代表に挙げるのが適当であろう。ここでは前者を西尾史観、後者を網野史観としておきたい。
 クニに関わる諸問題の代表的な項目として、靖国問題、国歌・国旗の問題、建国記念の日、改憲問題、愛国心教育の問題などを挙げることができる。ごく大雑把に分類すると、西尾史観に立つ人々は、クニは一つという心情から、これらのクニに関わる諸問題を肯定し、推進する側にある。網野史観に立つ者は、これに反対するという明確な対立構造を示しているといってもよい。
 網野氏の『日本とは何か』において主張されている立場は、要するにこの日本列島には、歴史的に一つの日本などなかった、とするものである。一方の『国民の歴史』に代表される「新しい歴史教科書」問題は、中国、韓国との外交問題にまでなって騒がれた。しかし、世に知られた割には、『国民の歴史』をまともに読了した読者は少ないのではないか。私は遅まきながら最近、『日本とは何か』と対比しつつこの書を隅々まで向き合って読んでみた。
 予想以上の内容があったとまず述べておきたい。西尾史観に賛同するという意味においてではなく、氏のすさまじいといって過言でないその執念の国家観に対して、ある種の感銘を禁じえなかったのである。西尾氏個人の心と魂は、どうやら日本という国家と分かちがたく結合しているらしい。
 反対に、『「日本」とは何か』の立場は、歴史的な「一つの日本」を想定することを幻想として退ける。この列島に暮らしてきた人々の文化や心情を、はじめから多様なものであったと理解する。その最も端的な拠り所として、沖縄の独立性が強調されている。沖縄は江戸時代以前、日本本土の側からみると異境・異域であったのであり、強引に併合された後も、文化や人々の心情の上では、異域であり続けた。かつて存在した「琉球王国」は、今なお地域の人々の誇りであり続けており、もしも経済や安全保障その他、もろもろの条件が許せば、沖縄の人々の多数は日本からの分離・独立を選択するのではないか。網野史観に相対する西尾史観においては、予想されるように沖縄やアイヌ問題は全く扱われることがない。この二つの史観のどちらに与するか、二者択一が迫られているようにみえる。

 歴史を専門とする学者諸氏の多くは、「多様な日本」をという網野史観に立っているらしい。その立場から、関東学、東北学など地域に立った学問を確立しようと努力もなされている。地域学の中でも際立っているのが伊波普猷を祖とし、外間守善氏に受け継がれている「沖縄学」であろう。
 さて、この旅も関東に入り、次は東北であろう。地域をまわって見るなかで、どの歴史観が正しいか、次第に分かってくると考えている。
 結論を先にいうと、網野史観、西尾史観の両者ともに大きな欠陥を抱えている。それは、日本という一つの国家の起源に、「沖縄が極めて重要な意味をもった」という事実認識の欠落である。
 この解明なくして、関東学、東北学はもちろん、沖縄学さえ存立しえない。伊波普猷や柳田国男の目指したものは、ご本人たちが自覚したかどうかは別として、結果的には、このことの解明であった、と理解しなければならない。その場合の「一つの日本」は、西尾史観でいう日本とは異なる「失われたもう一つの日本」にほかならない。
 沖縄、東北 関東など、奈良・京都から遠く離れた土地の中にだけ残っている、失われたもう一つの日本を発見し、その完全な再現を目指すことが大事である。その失われた日本こそが、実はかつての日本列島の人々が希求した「ほんとうの日本」らしいからである。地域学のほんとうの意義はこの点にあると私は思う。

 「失われた」とはいえ、奈良、京都を中心とするヤマトでは、歴史は実は神話の形になって残っている、という点に注意しないわけにはいかない。西尾史観においては、その神話を神話のままに信じ、尊重するよう主張する。しかしその立場は極めて危ないものである。太平洋戦争の前、そのような教育の結果、国は滅びた。
 神話を無視する網野史観の立場も誤りを含んでいる。神話は科学の力を借りて、歴史として復活させなくてはならない。