2003 年 2 月 のアーカイブ

メンテの日

2003 年 2 月 28 日 金曜日

以前、岐阜県に滞在していた頃、鹿児島から溜まりまくった荷物を預かってもらおうと1日だけ愛知県の姉の家に寄り、荷物を預かってもらっていた。その後、滋賀、大阪、四国四県とめぐり愛知県まで来たわけだが、またまた荷物が車内を圧迫、、今回もお願いしやーす!(^^;)

数日前に久々に家におじゃましたときに、姉から「義姉さんからもらった」とノートパソコンを見せてもらったとき、胸がときめいた(笑)。パソコンってのはソフトを追加したりして、使い込んでいくくうちにいろんな意味で”ゴミ”が溜まっていくようで、それにより動きが遅くなる。私の場合、今までなら1クールごとに1回のペースで入れなおしを行っていたが、今回ノートPCにつてはそれに必要なメーカー純正のCDドライブを持っていなかった(純正でなくてもできると思ってた)為、入れなおしができない状態でいた。姉がもらってきたノートパソコンの付属品にはなんとそのドライブが、、ときめかねぇ訳が無ぇ。

てな訳で、今日は「メンテの日」としよう。車の中を整理しつつ、PC環境も整理。うーん充実。

まずはPC内データのバックアップをとる。バックアップ中は仕事を含めたすべての作業を中断しなければいけない。システムの入れなおしまで含めて早く終われば終わるほど仕事への復帰が早いということ。てことは事前作業が必要、これ大事ね。バックアップ用のCDの予想枚数チェック。PC内のバックアップ予定のデータを集め、漏れが無いか入念にチェックし、バックアップ開始、、、

午前中で順調にバックアップ作業は済み、次は基本システムの入れなおし。ここで純正のドライブ登場。「お世話になりやす」両手を合わせ、セット。システム入れなおし開始。PC内のすべてのデータが削除され、新規にシステムを入れ直すまで半自動的に作業が進み。数時間後、工場出荷時の状態まで復旧。成功!

午後になり、姉が帰ってきた。昼ごはんを一緒しているときに「ふとん干しておいたら?」と。そうそう忘れていた。一度バックアップを取ったCDから逆にPCにデータを戻す作業をスタートさせて駐車場へダッシュ。車の中もメンテせねば、、

車の中の寝袋や布団一式を布団干し竿に引っ掛け軽く叩く。それ以外の車内の荷物は一旦部屋へ移動。少し時間を食ってしまい、掃除機を借りて車内を掃除するころには空が赤く染まっていた。

掃除機を掛けているうちに、すっかり暗くなってしまった。続きは明日にしよう。部屋に戻り、晩御飯を食べた後、PCの復旧作業を続ける。

データを入れ直した後、必要なソフトウェアをセット。深夜3時半ごろまで作業は続いたかな、、まだ終わらず、、、これまた続きは明日ということで。就寝。

画像————————————
1枚目:CDの山山山、、
2枚目:車の中の寝袋、ふとん一式を干す
3枚目:車内の様子

まま

2003 年 2 月 27 日 木曜日

2日前に久しぶりの再開を果たした母。面影が残っているどころか、「当時の記憶のまんま」だった。

先日、姉とはるかと私と母で昼食を一緒にした際、母に渡すものを姉の家に置いたまま忘れてしまった。今日はそれを取りに来てくれたので、ついでに二人でお茶しに行くことにした。

二人が離婚した小学生当時、正月のお参りではいつも”いつかまた両親が一緒になるように”と願っていたものだが、今はそういうことを考えなくなっていた。一緒になればそれはそれでうれしいことだが、私ら子供たちが会う分に問題がなければとくにそのままでも良いか、と。

姉貴もそれに関しては同じような考えを持っているようで、そういったところからだろう。母の生活状況については特に詳細まではつっこんで聞いていないらしい。しかし私にとってはこういう機会はめったにないこと、思い切って聞いてみることにした。

姉の家から車で5分程の場所にある喫茶でコーヒーを注文。

頃合をみて「どうよ?」て、聞いてみた。

、、、なにも隠すことなく話してくれたと思う。以前ならショックを受けたかもしれない事もあったが、「大丈夫、私は元気でやっているから」という母のメッセージを素直に受け止めることができた。とても安心した。

しかし、こうやって話していると、やっぱり母親である。子供に気遣っていることが言葉の端々から感じられる。そのことは、母と最後に会った7年前の私では気づかなかったことだろう。あらためて感謝、である。

帰り際に母が車の奥で何やらゴソゴソとしたかと思うとヒョイと袋を取り出し、
「はいこれ。ポークいっぱいあるから、あとガムもあるよ」

思わず笑ってしまう。全然変わってないなぁ。多分、家にあるものを大急ぎで持ってきたのだろう。統一感のないそれには”とにかく何かを渡したい”という愛情がいっぱいこもっていた。「いいから、大丈夫だからいーよっ!」と、照れつつも気持ちを頂きやした。

最後に二人で写真を撮って握手。「今度いつ会えるか分からんけど、元気でね」駐車場から見送り角を曲がるまでの間、車の中でずっと手を振り続ける母にたまらず涙。

「なんでこうなってしまったんだ、、」こんなすばらしい両親なのに、、悔しさでぐしゃぐしゃになった顔では帰れず、しばらく顔を伏せていた、、、。

家では姉貴が餃子を包んでいた。帰ってきた私をみて「やってみる?」と。

面白そうだ。「おう」餃子の皮を手にとり姉貴の横で一緒に包んでみた。結構イケるなワシ(^o^)部屋に入ってきたかずきも一緒に参加。やらせてみると一番形が良かった。将来有望だ!←叔父バカ。

しかし、姉貴が”焼き”で失敗!くっついて大きな”かたまり”なった餃子をはるかと私でちぎりながら晩御飯を過ごした。

画像————————————
1枚目:餃子を包むワシ
2枚目:餃子を包むワシその2
3枚目:結局かずきの餃子が一番上手

沖縄音楽家

2003 年 2 月 26 日 水曜日

姉貴は週1回、琉舞(琉球舞踊)を習いに行っており、たまに週末に公演に出かけることがある。同じ琉舞の生徒さんから、沖縄県人の方を紹介して頂いた。突然の訪問でしたが気持ちよくお話に付き合って頂いた。

朝、いつも私は朝寝坊(^^;)。目覚めたときは皆食パンをかじっている。サササと布団をたたんでソファーでボーとしていると。はるかが近づいてきた。いそいで小学校の準備をしているかずきと比べ時間に余裕のある幼稚園生。

「これね、んとねー、はるかがね、つくったんだよ」

昨日、はるかに買ったカラフルなビーズ(?)のおもちゃ。色の付いたその一粒一粒を並べて模様をつくり、上から専用の紙をそっと乗せ、アイロンで熱を加えると、それぞれが溶けてくっついてそのままアクセサリーになるという変わったおもちゃ。入れ物の箱に印刷されている見本を真似て作ったらしい。とても良くできていた。将来楽しみだウンウン←叔父バカ。

饒平名(よへな)さんは、設計のお仕事をしながら「JINJIN」というバンドにも所属。ギターとサンシンを担当なさっている。うちの姉とは琉球舞踊の公演などで何度か一緒したことがあるらしいが特に面識がない。「よへなさんとは飲み仲間」という姉と同じ琉舞を習う兼次(かねし)さんから紹介して頂き、お会いすることができた。

晩に姉と一緒に設計事務所へ伺いまし。

「ここは大きな音をだしても大丈夫だから、、」と事務所の周りを見ると、ヤマハのMTRやシンセ、ギター、サンシンが並んでいる。「スタジオも兼用てことですね」うらやましい!!

「はい。ここで録ったヤツ。よかったら持ってって」とCDを頂きました。どもです!

事務所を出て近くの店で晩御飯を一緒した。

自己紹介もかねて旅を思い立った経緯をお話すると、「いいね!」と。チャレンジ精神に共感頂けたようた。

「旅中どんなことがありました?」の問いにいくつか答えていたとき、香川県で偶然会った私の義理の叔父が琉球史の研究をなさっていることを話すと非常に興味を示し、「今度の土曜日は時間ある?是非、会わせたい人がいる」と。

その日は「模合(もあい)」という沖縄独特の飲み会があるらしく、当日は大勢の沖縄の方が参加されるようだ。土曜日は姉の所属するバレーボールチームの練習に参加しようと思っていたが、次回の練習日に参加することにしよう。

叔父の著書「赤椀の世直し」を1冊差し上げ、後にした。

画像————————————
1枚目:はるか作、花
2枚目:饒平名さんと姉と

名護オジの歴民講座(7) 沖縄と伊勢

2003 年 2 月 26 日 水曜日

 伊勢神宮が成立した11代垂仁天皇の頃、すなわち4世紀後半に、それまでは非常に親密であったヤマト(日本本土)と沖縄の関係が断絶した。その証拠が奈良、伊勢、尾張を中心に存在する。
 奈良と伊勢を結ぶ街道沿いに、幾つか著名な前期古墳がある。それらの古墳に特徴的な物は、実に沖縄を象徴する物品なのである。
 前期古墳とは、古墳時代の前期に作られた古墳であるが、その判定基準は、古墳に供えられた物の種類にある。
 たとえば有名な三角縁神獣鏡。女王国の卑弥呼が中国の魏(ぎ)の国からもらったとも云われるカガミである。カガミと共に、というより、カガミ以上に古墳時代前期に重要視されたらしいのが腕飾(わんしょく)類と云われる物。すなわち腕輪の形をした石製品である。幾つかの種類があるが、代表的なものが、鍬形石(くわがたいし)と石釧(いしくしろ)。
 これらは日本では唯一、沖縄の海底から採れるゴホウラとイモガイいう巻き貝がその起源である。このことは考古学的に完全に証明されている。大型のこれらの巻貝は、およそBC100年からAD350年頃までの間、約450年にわたって、九州から東北地方の南部にまで時間を追って次第に普及し、カガミ以上に重要な物と考えられた。
 しかし、それらの鍬形石は、伊勢神宮の成立した頃、すなわち4世紀後半に、捨てられるようにして墓に埋められるのである。それ以降は、奈良を中心とする畿内からは出てこない。親密であった沖縄との関係が途切れて、敵対関係になった証拠と私はみている。
 沖縄の貝の形が捨てられるように埋められた古墳が三重県嬉野町にある向山古墳や筒野一号墳。大正年間に車輪石や石釧が出土している。また三重県上野市の石山古墳の粘土槨内からは、大量の石製腕飾類(鍬形石、石釧など)が出た。これらの古墳はいずれも奈良と伊勢とを結ぶほぼ直線の上にあり、しかも築造年代も垂仁の時代、すなわち記紀にあるアマテラスの伊勢鎮座の頃(古墳時代前期末)であると推定される。
 「伊勢は常世の国の波は幾重にも押し寄せるところだから、私はそこに居りたい」とアマテラスは云われた。太平洋の黒潮にのって、沖縄からの波が寄せるところが伊勢だ、と解釈すれが、上の考古学的常識に合致する。伊勢と沖縄、また天皇家と沖縄との縁は意外に深いのである。真の歴史が失われて年久しい。

会うことの大事さ、

2003 年 2 月 25 日 火曜日

最後に会ったのはいつだろう、、、。それが最後だったかは既に定かではないが、私にとって最後の場面は愛知県。同居している母を置いて名古屋から大阪の専門学校に転向する為、大阪に発つシーン、、、。

当時、”いいんちょ”の愛称で親しんでいたクラスメイトの相沢君に名古屋→大阪へ荷物を運んでもらう為、愛車のレビンを出してもい、江南市の家まできてもらっていた。時間はすでに深夜。

荷物を詰め込み、いよいよ家を後にする。そのときの私は、テレビの中でしか見たことの無い”まいざい(関西弁)”の街、大阪へ行けることに胸躍らせていたが、出発直前、ふすまの向こう、既に電気の消えていた部屋で声を殺しながら、かすかにすすり泣く声が聞こえた事は今も忘れられない。

今日の待ち合わせの場所を確認する姉。「私(姉)の家までの道を(母が)はっきり覚えてないみたいだから、近くの温泉の駐車場で待ち合わせることになったよ」姉とも会っていなかったようだ。

少し早めに待ち合わせ場所に到着。時間まで待ってから一度TELしてみた。どうやら到着までもう少し時間がかかるようだ。「今のうち買ってこよか」近くのショッピングセンターへ入り、あまり派手ではないバッグと財布を購入。リボン付で包んでもらった。勘定は姉と割る

少し遅刻れて待ち合わせ場所へ。母はすでに到着していた。

「久しぶりー!」あまりの”変わらなさ”に拍子抜け半分、安心半分といったところ。ファミレスへ行くため車を一台にする。

「あ、まって忘れないうちに車に乗せとって、、、はい。最近60になったってねー」包みを渡す。

(ファミレスにて)
注文を済ませたあと料理がくるまでの間、昔話に花を咲かせる。本人も知らないくらい幼かった頃の事を知っているあたり、さすが”母”である。

母と会ってから、はるかの口数が減り、私と姉を行ったりきたりしている、、、体調を崩していたこともあるが、その様子、無理も無い。はるかにとっては私と姉が親しげに話している目の前の人は”みたことないひと”なのだろう。「はるちゃーん」と積極的に話しかける母と、どう接してよいかわからず返答できない様子のはるかを見て少し胸が痛んだ。

昔から「健康マニア」だった母。その努力の成果が出ているのだろう。髪の毛がとても黒々として、年齢よりは若く見える。”変わらなさ”を感じたのはそのせいだろう。私の唇が荒れているのをみるやいなや「トマトたべなさいトマト」と、、、そのあたりの脈略なく話しを切り出すあたりは私が似てしまった悲しむべき部分でもある(笑)

食事を済ませ、姉の晩御飯の買い物をしたあと、待ち合わせた駐車場へ。近日にもう一度会う約束をしてお別れ。小さな体には似合わない大きなバンを見送る。今日は改めて”会う”ことの大事さを知ることができた。

元気そうで本当によかった。

画像————————————
1枚目:左の戻り色の服が母(一部スけど、)