名護オジの歴民講座(3):松蔭の師、森田節斎

 「森田節斎」の墓地が紀ノ川沿いの町、粉河(こか)町荒見にある。節斎が吉田松蔭の師の一人であることは、司馬遼太郎著「世に棲む日々」の再読によって再認識。
 松下村塾を開く前の松蔭。友人との約束を守るために脱藩して東北漫遊の旅に出た。そのために処罰を受け、士籍を削られる。しかし松蔭にとって、それはいわば格好の長期休暇となり、それをまた旅にあてる。最初に目指したのが大和(奈良県)五条の森田節斎。
 その節斎。現在の奈良県五條市で医師森田文庵の二男として生まれた詩文の士。43才の時から京都で塾を開き子弟の教育にあたったが、倒幕尊王を説く「過激派」であった。
 松蔭が会った時は42歳、五条にいた。松蔭に大いなる影響を与えた。たとえば松蔭の漢文の節。明治以前、漢文を誦む時には節が付けられたというが、松蔭の漢文誦みはこの節斎流を受け継いだものであった。後に松下村塾を開いたとき、この独特の節によって弟子達を奮い立たせた。なお節斎のその節の源流は、美濃の学者、百峯の平家琵琶の旋律にあるらしい。百峯の家に起居していた時、よく聞いた百峯の琵琶を聞いた。その微妙な旋律をヒントに自分の独特な漢文読みを工夫した。それが明治という新しい時代を作る魂を呼び覚ましたとも云える。詩文・芸術の力は大きい。
 しかし、節斎自身は詩文の朗読によって人を奮い立たせるアジテーターではあっても、現実的政治家ではなかったらしい。文久3(1863)年、展望のないまま天誅組暴発事件をあおり、幕府に追われる身となった。荒見村(現・粉河町荒見)の北長左衛門の家に身を避けつつ、「簡塾」とよばれる塾を開き子弟の教育にあたっていたが、明治元年新政府成立の後、死去したという。

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